「ウラヤマ」を失った少年【仙人】を目指す。
 

 1972年横浜生まれ。3歳の時横須賀に移り、18歳までの多感な時期を、海と里山に囲まれた横須賀の恵まれた自然環境の中で育つ。幼少期、実家のすぐ裏に「裏山」と呼んでいた里山があり、その「ウラヤマ」が何よりも好きで、毎日、ウラヤマに登っては暗くなるまで遊んでいた。忍者ごっこ、ザリガニ釣り、カエル捕り、秘密基地・・・。原伸介にとってウラヤマは、まさに「夢の世界」だった。
 しかし、中学校2年生の時、そのウラヤマが、新設の中学校建設に伴って全て真っ平らにつぶされてしまう。人生最大のショックを受けた14歳の春、原は自分にひとつの誓いを立てた。「いつかこの山に恩返しをしなければならない」。
 山で生きる決意をした原は、高校の入学時に配られた「進路希望調査用紙」の「将来の希望職業欄」に、迷わず「仙人」と書いた。同級生から笑われ、担任からは呼び出しをくったが、山で生きる人=仙人しか思い浮かばなかった。
 その後、「仙人」を目指して、信州大学農学部森林科学科に入学。山の現場のことが学べると喜び勇んで通い始めるも、実習のほとんどない毎日に強く失望。全く講義に出なくなり、北海道を放浪。そこで自称「きこり」を名乗る25歳の青年と出会い、山の「現場の魅力」を熱く語られて夢を取り戻す。


修行。独立宣言。嘲笑。


 卒業から一年後、探し求めていた「山の現場の師匠」に出会う。その師匠のあまりのかっこよさに痺れ、「俺もこういう男になる!」と叫び、弟子入りを宣言。その後、「師匠が昔、炭を焼いていた」ご縁で炭焼きに出会い、その魅力の虜となる。
 一年間の炭焼き修行の後、独立。山主との交渉、荒れた山の開墾、ツルハシとスコップを使っての山道づくり、伐採、炭焼きの全てを独りで始め、半年で体重が13キロ減る。あまりに安い炭の値段に納得できず問屋に値上げを打診するも、「お前に焼いてもらわなくても中国人に焼かせりゃ一日200円だ」と言われてブチ切れ、絶縁を宣言。営業・販売まで自分でやる羽目になる。このとき、月収は6万円、時給換算で200円だった。しかし、固い決意の元、「俺は絶対、炭焼きでメシを食う!」と周囲に宣言。「絶対無理」「バカ」「時代錯誤」「親不孝者」・・・愚弄と嘲笑に満ちた周囲の反応に、原は燃えた。


「若者よ夢は必ず叶うのだ!」


 その後は、【30(歳)までは技術が貯金】との信念の元、「武士は食わねど高楊枝」と自分に言い聞かせ、ギリギリの生活の中で全国を炭焼き修行に回る。別れ際の名人たちの「頑張って炭焼きを続けてください、ワシにはもう後継者がいませんから」という言葉に胸が詰まり、次代へ炭焼き技術を継承する決意を固める。
 その後も怒濤の炭焼き人生を突っ走り、奇跡的な出会いの連続を経て、27歳でついに「本職の炭焼き」になる。「絶対無理」と言ったのは誰だったか。
 30歳になったとき、「今度は自分が伝える番だ」との決意の元、「若者に夢を!大人に勇気を!日本に元氣を!」をテーマに『ボクは炭焼き職人になった』を執筆。第20回新風社出版賞優秀賞を受賞。(現在第四刷突入)。
 現在は専業で炭を焼く傍ら、炭焼きのオフシーズンの夏場には全国各地を飛び回り、「若者よ 夢は必ず叶うのだ!」を主なテーマにした講演活動にも積極的に取り組んでいる。
 平成17年には若手の農家・職人・飲食店経営者を束ねて「百姓・職人集団【サムライ】」を立ち上げ、代表取乱役に就任。一次産業や職人仕事の「かっこよさ」と「魅力」と「きれい事ではすまない生々しさ」を次世代に伝える活動に命を燃やしている。


※仕事に支障をきたし、人見知りも激しいため、炭窯の見学は固くお断りしております。